Engineering for Energy & Environment

日揮(株)
猪俣 誠

第2次石油ショックの昭和51年にエンジニアリング会社の日揮に入社した。当時は、光化学スモッグのような大気汚染が深刻な社会問題になっており、配属された研究所では排ガス中のNOxをアンモニアで還元する脱硝技術の開発に従事することになった。開発は既に工業化の段階に進んでおり、新入社員の私はコークス炉ガスの脱硝パイロット装置の運転のために新日鐵(株)東海製鐵所に通うことになった。石炭をコークス炉に投入し、15分毎に吐き出される真っ赤なコークスとともに舞い上がる粉塵の中で、変動するNOxのピークを追いながらエンジニアの端くれになった気分になっていった。その甲斐もあって、その後数基が実用化されたが、化学工学出身には反応器のスケールアップは理解できても、中で起こっている反応を十分に理解するには触媒の知識が不足していた。1年で現場から戻ると、大学に逆戻りし、脱硝触媒の研究に関わることになった。この大学での2年間の研修を通して習得した触媒の専門知識や研究に対するフィロソフィーはその後の会社での研究業務に大いに生かされることになった。学生時代には考えられない程の多くの実験データを採取し、V2O5触媒上で起こっている脱硝反応メカニズムや触媒構造の解析にはわくわくしながら取り組んだ記憶がある。学生時代との違いが何かと問われれば、実社会で工業化の現場を一度経験したことによってスケジュールや成果に対して厳しい見方をするようになったこと、そして基礎研究が現場の実践にどのように生かされているかを知ったことであろう。指導教官に恵まれていたことも勿論である。

その後原油価格が高騰し、原油の安定供給に不安を感じ始めた1970年代後半、石炭や天然ガスから合成ガスを経由して液体燃料や化学原料を製造する研究が盛んに行われるようになった。当時、我が国は中東への高い原油依存に危機感を感じ、国家プロジェクトとして、石炭から合成ガスを経て直接高オクタン価ガソリンを製造する触媒・プロセスの開発をスタートさせた。このプロジェクトに7年間参加したが、原油価格はその後下落し、多くのプロジェクトはコスト競争力を失い終了した。最近まで、我が国は資源などの権益を獲得する意識は低く、エネルギー戦略の無い技術開発はこのように目先の原油価格に左右され、継続性がなかった。一方、資源を有するメジャーオイルは中長期的な戦略的に基づいて代替クリーン燃料(GTL:Gas to Liquid)などの製造技術を開発し、自ら事業化してきた。このような事業戦略的な技術は第3者にライセンスしない傾向にあり、今後我が国が積極的に上流に進出するためには日本独自の技術を開発、保有する必要がある。

我が国でも1990年代の後半からサルファフリー軽油や代替クリーン燃料に対する要求が高まり、軽油の超深度脱硫技術や天然ガスからのDME製造技術の開発に関わるようになった。DMEの開発では、今までとは違った取り組みを行った。単に製造技術の確立に留まらず、上流は天然ガスの確保から下流はDMEの有効利用までのサプライチェーンとしてのビジネスを考えて、DME製造技術からDMEの有効利用としてDME燃料電池、プロピレン製造技術の開発まで手がけた。2008年、三菱ガス化学(株)新潟工場において日本で初めて燃料用DMEのコマーシャルプラント(年産8万トン)が稼動し、燃料DMEの普及促進がスタートした。その普及に一役買うと期待されているDMEからのプロピレン製造も実証プラントが日本で計画されている。

これからは上流の資源開発から下流の用途開発まで見据えた技術・ビジネス開発がますます重要になってくる。九州大学の中核人材育成講座はまさに上流は化石資源および資源の開発技術、下流は利用技術や環境技術に至るまで充実しており、これからの我が国の戦略的な資源獲得・開発に資する人材の育成に貢献することを期待する。